気に入った飲食店へ、自分でもうまく理由を言い表せないまま、いつのまにか何度も足を運んでしまう。そんな覚えのある方はけっして少なくないはずですが、その心地よい繰り返しの裏側では、再びの来店を静かに後押しするいくつもの仕組みが、黙々と働き続けているのです。
私はこれまで、一度訪れてくれた客にもう一度足を運んでもらうための、いわゆるリピーターを育てるためのデジタル施策の組み立てに、長らく裏方として関わってきましたが、その内側は、店に集う方の目にはほとんど触れないところで、静かに動いています。
会計のあとに小さな特典がそっと積み上がっていく仕組みや、足がしばらく遠のいたころを見はからって届く一通の知らせ。そのどれもがけっして偶然の産物などではなく、あらかじめ丹念に組み上げられたうえで差し出されているのだと、ここで正直に種明かしをしていきます。
こうした内側を打ち明けることに、ためらいがなかったといえば嘘になりますが、それでもあえて明かそうと思い立ったのは、仕組みの正体を知ってなお、その店へ通いたくなるかどうかこそが、店と客の関係の本当の強さを測るものだと、静かに信じているからにほかなりません。
あらかじめお断りしておきたいのは、これから明かす施策の数々が、客をあざむいて財布のひもをゆるめさせるための小手先の策などではけっしてなく、むしろ来てくれた方の食事の時間をより心地よくするための、地道な下ごしらえであるという一点にほかなりません。
世に言うdxという言葉も、飲食店の現場に引き寄せてみれば、こうした再来を促す仕組みを一つずつ積み上げ、勘だけに頼っていた常連づくりを、確かな手がかりのうえで進め直していく、地に足のついた営みの積み重ねにほかならないのだと申せます。
かつての常連づくりは、店主が客の顔と好みを気の遠くなるほど根気強く覚え込み、その記憶だけを頼りに支えられていましたが、その属人的な勘の働きを、記録という形で誰の目にも見えるようにしていったのが、いま各地で静かに進んでいる変化なのです。
記憶に頼る常連づくりには、店主が変われば築いた縁が途切れてしまうという、いかんともしがたい弱さが常につきまとっていましたが、記録として残す仕組みは、その積み上げてきた縁を店そのものの財産として、静かに引き継いでいけるようにしてくれます。
とはいえ、記録や仕組みだけで客の心がつなぎとめられるほど、飲食店という商いは単純にはできておらず、その裏側の営みが、料理そのものの確かさや、迎える人の温もりと結びついて初めて、意味を持ち始めるのだということも、先に添えておきたいのです。
これから、会員の仕組みから、好みを読んだ品の勧め方、そして知らせを送る折の見きわめへと、リピーターを育てる施策の内側を、ひとつずつ順を追って開いていきますので、ふだんは見えないその舞台裏を、どうか気楽な心持ちでのぞいてみてください。
ここで念のため添えておきたいのは、これから明かす施策のどれもが、大がかりな仕組みを一度に据えて劇的に客の数を増やすといった派手な類のものではなく、来てくれた一人ひとりへの小さな手当てを、気の遠くなるほど地道に積み重ねていく、いわば根気だけがものを言う営みばかりだという、いささか拍子抜けするような事実にほかなりません。
まずは、多くの方がもっとも身近に触れているであろう、あの会計のたびに何かがそっと積み上がっていく会員の仕組みが、その画面の向こう側でいったい何をしているのかというところから、静かに、そして順を追って明かし始めていくことにいたしましょう。
店を出るまぎわ、会計の折に手もとの画面をかざすと、何かがひとつ積み上がったという小さな知らせが返ってくる。あの何気ない一瞬の裏側で、実のところ何が起きているのかを、まずはこの会員の仕組みから包み隠さず明かしていきたいと思います。
客が積み上げているように見えるあの小さな印は、店の側から眺めると、いつ、どれくらいの間をおいて、どのような品とともに訪れたのかという、来店の足取りそのものが一枚ずつ記録として重なっていく過程にほかならないのだと、まずは打ち明けておきます。
特典が一定のところまで積み上がると、次の来店でささやかな一品や割り引きが受け取れる。その区切りをどのあたりに置くかは、けっして行き当たりばったりではなく、あと少しでもう一度行けば届く、と客が感じる絶妙な手前に、慎重に据えられているのです。
なぜその手前なのかといえば、あまりに遠い目標は端から諦めを呼び、逆に軽々と届いてしまう目標はありがたみを損なうからで、もう一歩で手が届くという、ほどよい張り合いの残る位置にこそ、再びの来店を静かに促す力が宿ると分かっているからにほかなりません。
内側をもう少し明かせば、積み上がった特典には、そっと使える期限がしのばせてあることが多く、この期限こそが、失うのは惜しいという人の自然な心の動きを借りて、足の遠のきかけた客の背をやわらかく押す、静かな仕掛けとして働いているのです。
もっとも、こうした期限を、客を追い立てる冷たい鞭のように使ってしまえば、かえって煩わしさだけが残り、二度と足が向かなくなるため、あくまで忘れかけたころにそっと思い出してもらうための、控えめな合図にとどめる、その加減こそが要になります。
会員の仕組みがもたらす本当の値打ちは、実のところ特典そのものよりも、その裏で積み上がっていく来店の記録のほうにあり、この記録があればこそ、店は一人ひとりの客をおぼろな人ごみとしてではなく、確かな輪郭を持った相手として捉え直せるのです。
どの品をよく選び、どれくらいの間をおいて訪れ、どの時分に腰を落ち着けるのか。そうした一人ひとりの通い方の癖が記録として見えてくることで、店はその客にとってちょうど心地よい距離の詰め方を、勘に頼らずに測れるようになっていきます。
ここで正直に申し添えておかねばならないのは、こうした記録の積み上げが、客のあずかり知らぬところで勝手に進んでよいものではけっしてなく、何をどう控えているのかを隠さず示し、いやなら退けられる道を必ず残しておく、その誠実さが欠かせないという点です。
積み上げた記録をどう扱うかにこそ、その店が客をどう見ているのかという姿勢がにじみ出るのであり、集めた手がかりを目先の売り上げへ性急に換えようと焦る店は、遠からずその底の浅さを客に見透かされてしまうのだと、経験から申し上げておきます。
もう一つ内側から明かしておきたいのは、こうして積み上がった来店の記録が、その客に合わせた特典の選び方そのものにも生かされているという点であり、よく選ばれてきた品に近い一皿をそっと特典として差し出すことで、受け取った側が思わず顔をほころばせる、そんな細やかな心配りまでもが、静かに凝らされているのだということです。
こうして会員の仕組みが静かに積み上げていく来店の記録は、それ自体では数の連なりにすぎませんが、次に明かす、客の好みを読んで品を勧めるという施策と結びついたとき、初めて生きた働きを始めますので、続いてその内側へと歩を進めていきましょう。
しばらくぶりに訪れた飲食店で、頼もうかどうか迷っていたまさにその一品が、画面の上でそっと勧められていて、思わず選んでしまった。そんな不思議に頃合いのよい出会いの裏側にも、実は周到な仕掛けが隠れているのだと、続いて打ち明けていきます。
あの、まるで自分の好みを見透かしたかのような品の勧めは、けっして偶然の巡り合わせなどではなく、これまで積み上げてきた注文の記録から、その人が好んで選んできた味の傾きを静かに読み取ったうえで、そっと差し出されているものにほかなりません。
辛いものを好んで選びがちなのか、あっさりした味へ手が伸びやすいのか、あるいは連れと分け合える品を好むのか。そうした一人ひとりの選び方の癖が記録から浮かび上がることで、店はその客に響きやすい一皿を、あらかじめ見当づけられるようになるのです。
ここで種明かしをしておくと、勧める品はただ好みに寄せればよいというものではなく、いつも選ぶものにほんの少しだけ隣り合う、試したことのない一皿をそっと差し挟むことで、いつもの満足に小さな新しさを添えるという、細やかな匙加減が凝らされています。
なぜ隣り合う品なのかといえば、まるで見当違いの勧めは客の興をそぐだけですが、いつもの好みからほんの一歩だけ踏み出した提案は、失敗の恐れが少ないまま新たなお気に入りへ出会わせ、その店で味わえる楽しみの幅を静かに広げてくれるからにほかなりません。
こうした品の勧めが積み重なっていくと、客はその店を、ただ料理を出すだけの場ではなく、自分の好みを分かってくれて、まだ知らないおいしさへ導いてくれる相手として捉えるようになり、その信頼こそが再びの来店を静かに支える土台となっていきます。
内側からもう一つ明かせば、勧める品には、その日の仕入れの都合や、余らせたくない食材の事情がそっと重ねられることもあり、客の好みと店の台所の事情とが、うまく折り合う一点を探り当てて差し出されている場合が、実のところ少なくないのです。
これを客をあやつる小ざかしい策と受け取るか、食材を無駄にせず旬のものを勧める心づかいと受け取るかは、まさに店の腹づもり次第であり、その勧めの奥に客への誠実さが通っているかどうかは、通ううちに客のほうが自然と嗅ぎ分けていくものです。
正直に打ち明けておくと、この好みの読みは万能などではけっしてなく、その日の気分や連れ合いによって人の食べたいものは移ろうため、記録から導いた勧めが的を外すことも当然あり、そこはあくまで一つの手がかりにすぎないと心得ておくべきなのです。
だからこそ、画面が差し出す勧めを絶対のものとして客に押しつけるのではなく、あくまで選ぶ手がかりの一つとしてそっと添えるにとどめ、最後にどれを選ぶかは客自身の心にゆだねる、その引き際の潔さこそが、施策の品を決めるのだと感じています。
さらに内側を明かせば、こうした品の勧めは一度きりで終わるものではなく、実際に選ばれたか見送られたかという反応そのものが、次の勧めをより確からしいものへと静かに練り上げていくため、通えば通うほど、その店の勧めが自分の好みへ寄り添ってくるように感じられていくという、静かな積み重ねの妙味がそこにはあるのです。
こうして好みを読んで差し出す品の勧めは、客が店にいるそのときの満足を静かに深めていきますが、では店を離れて日が経ったあと、遠のきかけた足をもう一度こちらへ向けてもらうために何をしているのか、次はその知らせを送る折の見きわめを明かします。
しばらく足が遠のいていた飲食店から、ちょうど何か食べに出かけたいと思っていた矢先に、一通の知らせがそっと届く。あの絶妙な頃合いのよさは、いったいどこから生まれているのかという、いわば知らせの折の見きわめについて、ここから明かしていきます。
まず打ち明けておきたいのは、あの知らせが届く折は、けっして手当たり次第にばらまかれているのではなく、その客がふだんどれくらいの間をおいて訪れているのかという、来店の周期を読み取ったうえで、そっと見はからって送られているという一点です。
たとえば、いつもおよそ三週ごとに顔を見せていた客の足が、その周期を過ぎても向かないとき、そろそろ思い出してもらう頃合いだと判じて、一通の知らせがそっと差し向けられる。その裏には、一人ひとりの通い方を測る、地道な読みが働いているのです。
なぜ周期を読むのかといえば、まだ来て間もない客に急いで知らせを送れば、しつこいという疎ましさだけが残り、逆に長く放っておけば、店の存在そのものが記憶から薄れてしまうため、その二つの隙間を突く頃合いこそが、要となるからにほかなりません。
送る知らせの中身にも、実は細やかな使い分けがあり、その客が好んで選んできた品の旬の便りを添えたり、しばらくぶりの来店にささやかな一品を用意したりと、相手の記録に合わせて一通ずつ書き分けられていることを、内側から明かしておきます。
誰にでも同じ文面を一斉に送りつける知らせが、いかに読み流され、疎まれ、やがて見向きもされなくなるかを、私は数えきれないほど目のあたりにしてきたからこそ、一人ひとりへ宛てて書き分けることの重みを、身にしみて知っているのです。
とはいえ、いくら周期を読み、中身を練り上げたところで、知らせを送る度が過ぎれば、たちどころに煩わしさへと転じてしまうため、あくまで忘れかけたころにそっと一度だけ、という控えめさを守ることが、この施策では何より肝心になってきます。
送る折を計る物差しは来店の周期だけにとどまらず、季節の移ろいや、その店ならではの催しの時季、あるいは客が以前に足を運んだ記念の頃合いなど、いくつもの手がかりを重ね合わせて、もっとも心に届きやすい一日が探り当てられていきます。
ここで正直に申せば、こうした知らせが、客の暮らしのなかへずかずかと踏み込む煩わしさと、うれしい便りとの境目は、驚くほど紙一重であり、その細い一線をどちらへ踏み外すかで、施策は客をつなぐ糸にも、遠ざける壁にも変わってしまうのです。
だからこそ、送りたいという店の側の逸る気持ちをぐっとこらえ、受け取る客の暮らしの間合いをあくまで先に立てる、その自制の効いた抑えこそが、知らせという施策の値打ちを最後に分けるのだということを、失敗の苦い覚えとともに申し添えておきます。
もう一点、内側から打ち明けておきたいのは、送った知らせに客がどう応えたか、つまり足を運んでくれたか、それとも読み流したかという反応までもが、静かに書き留められ、次にいつ、どのような便りを送るのがふさわしいかという折の見きわめへと、そっと生かされていくという、地道な繰り返しの仕組みにほかなりません。
こうして送る折を見はからった知らせは、遠のきかけた足をもう一度そっとこちらへ向けてくれますが、いざ再び訪れてくれた客を、どのように迎え、どうもてなすのか。次は、偶然の心づかいのように映るその特別な迎え方の内側を、明かしていきます。
久しぶりに訪れた飲食店で、いつもの席へ自然と通され、好みの飲み物をさりげなく差し出され、あなたのための一皿ですと小さな心づかいを添えられる。あの、まるで偶然の厚意のように映るもてなしの内側にも、実は静かな下ごしらえが潜んでいます。
まず打ち明けておきたいのは、いつもの席へすっと通されるあの心地よさが、けっして迎える者のとっさの機転だけによるものではなく、その客がどの席を好んで選んできたのかという記録に、あらかじめそっと支えられているという事実にほかなりません。
好みの飲み物を覚えていたかのように差し出されるあの一瞬も、その裏では、これまで幾度も選ばれてきた品が記録として静かに残されており、迎える者はそれをあらかじめ手がかりとして胸に入れたうえで、さりげなく差し出しているにすぎないのです。
なぜわざわざ記録に頼るのかといえば、迎える者がどれほど気働きに長けていても、日々おびただしい数の客の一人ひとりの好みを、記憶だけで取りこぼしなく抱え続けることには、おのずと限りがあり、その記憶の穴を静かに補うためにほかなりません。
とりわけ、その客をいつも迎えていた者が休みの日でも、記録が引き継がれてさえいれば、いつもと変わらぬもてなしを差し出せるという点にこそ、記録に支えられた心づかいの、途切れにくいという静かな強みが宿っているのだと申せます。
記念の日をそっと覚えていて、さりげなく一皿を添えるという、あの心憎いもてなしもまた、あらかじめ書き留められた記録があればこそ成り立つものであり、その一皿は、忘れられていなかったといううれしさを客の胸に静かに残していきます。
ここで念を押しておきたいのは、こうした記録に基づく心づかいが、ただ機械が指図するままに差し出されるだけでは、どこか空々しく、かえってよそよそしく映ってしまうという、見落とされがちな落とし穴があるという一点にほかなりません。
記録はあくまで、迎える者がどこへ心を向ければよいのかを指し示す、静かな道しるべにすぎず、その手がかりを受け取ったうえで、目の前の客の表情や様子をくみ取り、血の通ったもてなしへと仕立て直すのは、やはり人にしかできない仕事なのです。
だからこそ、記録に頼りきって迎える者が心を働かせなくなってしまえば、もてなしはたちまち痩せ細り、逆に記録を軽んじて記憶だけに戻れば、取りこぼしが増える。その両者のちょうど真ん中を歩むことにこそ、内側での苦心が注がれています。
客の側からすれば、覚えていてくれたといううれしさの源が、迎える者の記憶なのか、静かな記録なのかは、さして重要ではなく、大切なのは、自分が確かに一人の客として気にかけられているという、その温もりが確かに届くかどうかなのだと思います。
さらに内側から申し添えておきたいのは、こうした記録に支えられた迎え方が、なじみの客だけに許された特権にとどまらず、初めて訪れた客の、その日のちょっとした好みや様子、交わした何気ない一言までもがそっと書き留められ、二度目の来店の折に生かされることで、一度きりの客を常連へと静かに育てていく、その静かな入り口にもなっているという点にほかなりません。
こうして記録に支えられた特別な迎え方は、再び訪れた客の心をそっとつなぎとめていきますが、では、ここまで明かしてきた数々の施策が、どこで力を失い、何をなしえないのか。次は、あえてその限界と、苦い失敗までも、正直に打ち明けます。
ここまで、リピーターを育てる施策の内側をいくつも明かしてきましたが、その仕組みがけっして万能ではなく、どこで力尽き、何をしくじってきたのかを正直に打ち明けずに終えるのは、内側を語る者として誠実さを欠くと感じるのです。
まず率直に認めておかねばならないのは、どれほど記録を積み上げ、頃合いを読み、品を勧めたところで、肝心の料理そのものがおいしくなければ、それらの施策はことごとく空回りし、客は静かに、そして二度と戻らずに去っていくという、動かしがたい事実です。
実際に私が関わったある場面では、知らせを送る度が過ぎたために、便りが届くたび客の心が冷えていき、せっかく築いた縁が音もなくほどけていったことがあり、あのときの、良かれと思った手数が仇となる苦さは、いまも忘れられずにいます。
また、記録に頼るあまり、迎える者が目の前の客そのものを見なくなり、画面が告げる好みばかりをなぞって差し出した結果、そのもてなしがどこか空々しく映って客を白けさせてしまった、という手ひどいしくじりも、正直に打ち明けておかねばなりません。
施策が力を失うもう一つの場面は、客がその店に求めているものが、実は何ものにも代えがたい静けさや、そっと放っておいてもらえる間合いであったときで、そうした客にとっては、こまやかな心づかいさえ、ときに煩わしい押しつけと化してしまうのです。
こうした苦い失敗の数々が、そろって指し示しているのは、リピーターを育てる施策とは、あくまで客と店の縁を結ぶ手助けにすぎず、その縁そのものを生み出す力までは持ちえないという、わきまえておくべき分をおいてほかにありません。
縁の芯にあるのは、やはり一皿の料理の確かなおいしさであり、迎える人の飾らない温もりであって、デジタルの施策は、その芯をより遠くまで、より長く保たせるための包み紙のようなものにすぎないのだと、内側を知る者として言い添えておきます。
包み紙がどれほど美しく凝っていても、肝心の中身がともなわなければ、客はやがてその見せかけを見抜いてしまうのであり、施策にばかり気を取られて料理や接客への手を抜いた店から、静かに客足が引いていく様を、私は幾度も見てきました。
だからこそ、これから施策を取り入れようとする飲食店にこそ、まず何より料理と迎える心を磨き抜いたうえで、その確かな土台の上にそっと仕組みを重ねてほしいと、内側を歩んできた者として、切に願わずにはいられないのです。
施策の内側を明かすことで、その仕掛けじみた印象が客の興ざめを招くのではないかと案じもしましたが、種を知ってなお通いたくなる店であれば、その関係はいっそう揺るぎないものになるはずだと、あえて包み隠さず打ち明けることにしたのです。
もう一つ正直に打ち明けておきたいのは、こうした施策のことごとくが、それを扱う人の心構え一つで、客を思う温かな下ごしらえにも、ただ数字だけを追いかける冷たい仕掛けにも、いともたやすく転じてしまうという点であり、道具そのものに善悪があるのではなく、それを手にする者の姿勢こそが厳しく問われるのだということを、幾度もの苦い失敗から思い知らされてきたのです。
こうして、光の当たる工夫だけでなく、その陰にある力の限りやしくじりまでを洗いざらい並べ終えたところで、リピーターを育てるデジタル施策の内側とは結局のところ何だったのかを、最後にもう一度、静かに束ね直しておくことにいたします。
気に入った飲食店へ、なぜか繰り返し足が向いてしまうというあの心地よい習わしの裏側を、会員の仕組みから品の勧め、知らせの折、そして迎え方に至るまで、ひとつずつ開いてまいりましたが、そこに一貫して流れていたのは、静かな下ごしらえの積み重ねでした。
会計のたびに何かが積み上がる会員の仕組みは、その裏で来店の足取りを一枚ずつ記録として重ね、店が一人ひとりの客を、おぼろな人ごみではなく確かな輪郭を持った相手として捉え直すための、静かな土台を築いていたのだと明かしてまいりました。
好みを読んで差し出される品の勧めは、これまでの注文の記録から味の傾きを汲み取り、いつもの満足にほんの少しの新しさを添えることで、その店で味わえる楽しみの幅を静かに広げる、細やかな匙加減の凝らされた工夫であったことを打ち明けました。
遠のきかけたころにそっと届く一通の知らせは、その客の来店の周期を読み、季節や記念の頃合いを重ね合わせて、もっとも心へ届きやすい一日を探り当てて送られており、その細い一線を踏み外せば、たちまち煩わしさへと転じる紙一重の営みでもありました。
再び訪れた客をいつもの席へ通し、好みの品をさりげなく差し出す、あの偶然の厚意のように映るもてなしもまた、あらかじめ書き留められた記録に支えられ、それを迎える人の温もりへと仕立て直して初めて生きるものだと、内側から明かしてまいりました。
その一方で、どれほど施策を尽くしても、料理そのものがおいしくなければすべては空回りし、知らせの度が過ぎれば縁はほどけ、放っておいてほしい客には心づかいさえ煩わしく映るという、力の限りと苦い失敗の数々も、包み隠さず打ち明けてまいりました。
これらを通して見えてくるのは、飲食店にとってのdxが、客をあやつる小手先の策などではけっしてなく、勘だけに頼っていた常連づくりを確かな記録のうえで進め直し、料理と接客という芯を、より遠くまで保たせるための地道な営みであったという姿です。
リピーターを育てる施策の内側とは、つまるところ、一皿の確かなおいしさと、迎える人の飾らない温もりという揺るがぬ芯を、そっと包み、長く保たせるための丁寧な包み紙にほかならず、その芯を欠いたまま包み紙だけを凝らしても、客はやがて去っていきます。
だからこそ、これから仕組みを取り入れようとする店には、まず料理と迎える心を磨き抜いたうえで、その確かな土台の上にそっと施策を重ねてほしいと、内側を長く歩んできた者として、あらためて心から願わずにはいられないのです。
そして客の側にも、次になじみの店を訪れたとき、そのさりげない心づかいの奥に、自分を一人の客として気にかけようとする静かな下ごしらえが潜んでいることに、ふと思いを馳せてみてほしいと、種を明かし終えたいま、静かに感じています。
そして、これらの施策を貫いて流れていたのは、客をただ数として捉えるまなざしではなく、あくまで一人ひとりの顔を思い浮かべ、その人の食事の時間をどうすれば少しでも心地よくできるかと静かに問い続ける、地道で温かなまなざしそのものであったのだということを、あらためて胸に深く刻んでおきたいと思います。
仕掛けの種を知ってなお、その店の食事の時間が愛おしく、また扉を開けたくなるのであれば、それこそが、いかなる施策にもまさる、店と客との確かな縁の証しにほかならないのだと、内側のすべてを打ち明け終えた今、あらためて申し上げておきたいと思います。