券売機に向かって食券を買い、卓上の画面から料理を選び、会計は自分で機械に済ませる。そんな無人の仕組みが飲食店の店内に静かに増え続けている今、かつてそこに確かに流れていたはずの人の情はいったいどこへ向かっていくのかと、日々の食事のなかでふと、いちど立ち止まって問い直してみたくなる方も多いのではないでしょうか。
店に足を踏み入れても、迎えてくれるのは笑顔の人ではなく無機質な画面や機械ばかりで、注文から支払いまでのすべてを、誰ともひと言も言葉を交わさないまま静かに終えられてしまうという場面が、いつのまにか珍しくもなくなってきたと肌で感じている方は、けっして少なくないように思われてなりません。
こうした無人の光景を前にして、多くの人がまず胸の奥に抱くのは、人の手が減っていくぶんだけ店に漂う温もりまでもが薄らいでしまうのではないかという、どこか寂しさをにじませた素朴な不安であり、その気持ちはあまりにも自然なものであって、頭ごなしに否定できるようなものではありません。
けれども、その一方で、注文を取り会計をさばくといった手のかかる作業から店員がひとたび解き放たれることによって、かえって目の前の一人ひとりの客へ向けて注げる気持ちの余白が大きく広がり、人の情がむしろ以前より深まっていくのではないかという、まったく正反対の見立てもまた、静かに成り立つのです。
つまり無人の仕組みをめぐるこの問いは、店が冷たくなるか温かくなるかという単純な二択で、すぱりと小気味よく割り切れるようなものではけっしてなく、その相反する二つの可能性を同時にはらんだ、思いのほか奥の深い問いなのだということを、まずは静かに受け止めておく必要があるように感じます。
そもそも食事という営みは、ただ空腹を満たして体を養うためだけの味気ない行為なのではなく、料理を丹精込めて作る人と、それをありがたく味わう人との間に、目には見えないけれども確かな気持ちのやり取りが交わされてきた、古くからの人と人との交わりの場でもあったことを、あらためて思い起こしてみてください。
だとすれば、その温かな交わりの場へ機械が新たに入り込んでくるということが、はたして人の情を無遠慮に押しのけてしまう出来事なのか、それとも余計な手間をそっと肩代わりして情の通う余地をむしろ広げてくれる出来事なのか、その見きわめの一点にこそ、この問いのいちばん深い核心が横たわっているのだと言えます。
近ごろ飲食店の現場でしきりに語られるdxという言葉も、その本当の狙いは、そこで働く人の数をただ削り減らすことにあるのではなく、機械に安心して任せられる部分は思い切って任せてしまい、人にしかできない心づかいのほうへ、限りある力を注ぎ直していくところにこそ置かれているはずなのだと、まずは押さえておきたいのです。
この記事ではこれから、無人の仕組みが飲食店の現場から実際に何を取り除き、そのぶんだけ人にいったい何をもたらしているのかを、いくつもの具体的な場面へ立ち返りながら一つずつ丁寧にたどっていくことを通じて、冒頭に掲げたあの一筋縄ではいかない問いへの答えを、読者のみなさんといっしょに探し出していきたいと思います。
読み進めていくうちに、無人化と人の情とは、けっして一方が立てば他方が引っ込むような相いれない敵同士なのではなく、迎え入れる側の扱い方しだいで、互いを鮮やかに引き立て合う心強い間柄にもなり得るのだという、これまで当たり前だと思い込んでいた見方を少しだけほどくような気づきに、きっとたどり着けるはずです。
それではまず、無人の仕組みが飲食店という現場から実際のところ何を取り除いているのか、その正体をあいまいなまま放置せずにていねいに見定めていくところから、この人の情をめぐる長い問い直しの旅路を、静かに、しかし一歩ずつ確かに歩み始めていくことにいたしましょう。
無人の仕組みが人の情を深めるのかどうかというこの問いを腰を据えて考えていくには、まずはその仕組みが飲食店の現場から具体的にいったい何を取り除いているのかを、あらかじめの思い込みをいったん脇へ置いたうえで、一つずつ冷静に、順を追って見定めていくところから始めなければならないと思います。
券売機や卓上の注文画面がまず肩代わりしているのは、店員が客の席まで幾度も足を運んでは料理の希望を聞き取り、それを紙に書き留めては厨房へ正確に伝えるという、一見するとささやかに映りながら、実のところ現場の手をもっとも多く奪い続けてきた、あの注文の受け渡しをめぐる一連の工程にほかなりません。
この工程には、客に呼ばれてもすぐには駆けつけられないときの気まずさや、聞き間違いによってわざわざ料理を作り直す羽目になる骨折れ、そして品切れの有無をいちいち確認しにいく焦りといった、外からは見えにくい心の負担が幾重にもまとわりついていたことを、現場を知る人であればよくご存じのはずです。
会計を客が自ら済ませる仕組みが取り除いているのは、食べ終えた客をいくらか待たせながら伝票の数字を計算し、釣り銭を数えて手渡すという、これもまた閉店の時刻まで店員の手と気持ちを絶えず縛りつけ続けてきた、一日の締めくくりにあたる重たい作業なのだと、言い換えることができるでしょう。
入口での案内を機械へ委ねる仕組みが軽くしているのは、混み合う時間帯にできた列を手際よくさばきながら、空いていく席を絶えず目で追い、どの客をどの席へ通せば流れが滞らないかを瞬時に判断し続けるという、休む間もなく神経をすり減らしていく、あの張りつめた見張りのような役目にほかなりません。
こうしていくつも並べて眺めてみると、無人の仕組みが実際に取り除いているのは、どれもこれも人と人との温かな触れ合いそのものなのではなく、その触れ合いをむしろ横から妨げ、じわじわとすり減らす原因になっていた事務のような作業ばかりであったことに、あらためて気づかされるのではないでしょうか。
言い換えれば、店員がこれまで一手に背負い込んできた仕事のなかには、機械にそっくり譲り渡してしまってもいっこうに差し支えのない部分と、どうしても人でなければ代わりのきかない部分とが、実のところくっきりと分かれながら、渾然と混じり合って存在していたのだということになります。
注文の中身を寸分たがわず厨房へ伝えることや、代金を一円の狂いもなく受け取ることは、なによりも正確さこそが命であって、そこに人ならではの温もりが求められる余地はもともと乏しく、むしろ疲れも気の緩みも知らない機械が、人よりもよほど得意とするところだと言ってよいはずです。
その一方で、初めて訪れて緊張している客の張りつめた気持ちを、ふとした何気ない一言でやわらかくほぐしたり、運ぶ料理にちょっとした心づかいをそっと添えたりするような営みは、どれほど技術が目覚ましく進んだところで機械にはついに肩代わりできない、人だけに残された領分にとどまり続けます。
だとすれば、無人の仕組みを店に迎え入れるという選択は、そこから情を無理やり奪い取ってしまう冷たい行いなのではなく、もともと情の通いようのなかった事務作業のほうを機械の側へ切り分けて、人の手もとには人にしかできない役目だけを大切に残していく、いわば仕事の丁寧な仕分けなのだと捉え直せます。
では、そうして情の通わない事務作業から晴れて解き放たれた店員の手と心は、いったいどこへ向けられるべきなのか、そしてまさにそこにこそ人の情が新たに深まっていく芽が息づいているのかどうかを、次はもう一歩だけ踏み込んで、じっくりと確かめていくことにいたしましょう。
無人の仕組みが厄介な事務作業を気持ちよく肩代わりしてくれるとしても、ただそれだけで人の情がひとりでに深まっていくわけではけっしてないという、どこか都合のよい期待にあえて冷や水を浴びせるような事実から、この場面では目をそらすことなく正面から語り起こしてみたいと思います。
機械を導入した多くの飲食店が、その導入の直後にまず思いがけずぶつかってしまうのは、手が空いたぶんの人手をそっくりそのまま減らしてしまい、残された店員がかえって以前と変わらぬ、あるいはそれ以上の忙しさに追われ続けるという、せっかく生まれた貴重な余白を丸ごと取りこぼしてしまう落とし穴なのです。
もし経営の側の狙いが、機械によって浮いたぶんの人件費をひたすら削り取ることだけへ一心に向かってしまえば、無人化は店から情を深めるまたとない機会を奪い去るばかりか、少ない人数で無理にやり繰りするそのぶんだけ現場をいっそう殺伐とした空気に沈めてしまう危うさすら、静かにはらんでいると言わざるを得ません。
訪れる客の側から見ても、注文も会計もことごとく機械で済んでしまい、店内を見渡してもどこにも人の姿がまるで見当たらないような店では、たしかに用件そのものは滞りなく足りるのですが、食事を終えて店を出たあとに心へ残るものがどうにも乏しく、どこか味気なさばかりが後を引いてしまいがちなのです。
つまり無人の仕組みそのものには、人の情を深める力も、逆にそれを薄めてしまう力も、はじめからどちらも備わってはおらず、その仕組みをいったいどちらの方向へ振り向けていくのかという、迎え入れる店の側の意志のありようこそが、最終的に行き着く先を大きく分ける分かれ道になっているのだと言えます。
ここで本当に問われているのは、機械を店へ入れるか入れないかという、目に見えやすく表面的な選択なのではなく、機械に任せて浮いた時間と気持ちの余白を、その店がいったい何のために使おうと心に描いているのかという、もっと奥のほうに静かに横たわっている構えのほうなのだと、あらためて気づかされます。
その根っこの構えが、ひたすら人減らしのほうだけを向いていれば、無人化は結局のところただの冷たい省力の道具へと成り下がってしまい、逆にそれが客への一人ひとりの心づかいのほうを向いていれば、まったく同じ仕組みが、人の情を深めていくための頼もしい土台へと、その姿をがらりと変えていくことになるのです。
だからこそ、無人の仕組みを店に入れるかどうかをあれこれ思案する前に、それによって新たに生まれてくる余白を、自分たちはいったい何に注ぎ込みたいと願っているのかという問いのほうを、店の側が先まわりして胸の内へしっかりと据えておくことが、何にもまして欠かせないのだと申し上げておきたいのです。
この肝心な問いをうっかり置き去りにしたまま、ただ世間の流行りに気軽に乗って機械だけを次々と導入してしまえば、人の情はいつのまにかやせ細り、それにつれて客足までもが静かに遠のいていくという、けっして望んではいなかった結末をみずから招きかねないことを、どうか軽く見ないでいただきたいと思います。
逆に、生まれる余白の使い道をあらかじめ具体的に思い描いたうえで機械を迎え入れさえすれば、無人化はむしろ、これまで手が回らずに泣く泣くあきらめてきた細やかな心づかいのほうへ、ようやく力をたっぷりと注げるようになる、またとない好機のほうへと、その意味合いを大きく転じてくれるはずなのです。
では、そうして生まれた貴重な余白を、迷わず客への心づかいのほうへ振り向けていったとき、飲食店の現場にはいったいどのような温かな場面が新たに立ちのぼってくるのか、次はいくつかの具体的な情景に沿って、その手ざわりを一つずつ確かめていくことにいたしましょう。
事務作業から手が空いた店員が、その生まれた余白を迷いなくまっすぐ客への心づかいのほうへ振り向けたとき、飲食店の現場にはいったいどのような温もりのある場面が新たに生まれてくるのかを、ここではできるだけありありと目に浮かぶような、具体の情景として思い描いてみたいと思います。
たとえば、注文を取りにあちこち歩き回る足労からひとたび解き放たれた店員は、初めて店を訪れて品書きを前にどれにしようかと戸惑っている客のそばへそっと歩み寄り、今日のおすすめの食べ方や量のちょうどよい目安を、けっして急かすことなく、ゆったりとした調子で伝える余裕を、ようやく取り戻すことができます。
小さな子どもを連れて訪れた客に対しても、以前ならば次から次への注文に追われてつい素通りしていたところを、取り分け用の小皿をさりげなく差し出したり、うっかりこぼしてしまった飲み物を騒ぎ立てずに手早く拭き取ったりといった、細やかで気の利いた気配りのほうへ、無理なく手を伸ばせるようになっていきます。
体の不自由な客や、目のよく見えなくなった年配の客に対しては、機械の操作に手を添えながら画面に映る内容をゆっくり読み上げ、その方が納得して選び終えるまで辛抱強くそばに寄り添うという、まさに人でなければ果たしようのない役割のほうが、無人化が進んだ店ではむしろ以前よりくっきりと前面に立ち上がってきます。
料理を客のもとへ運ぶ何気ない場面でも、ただ黙って皿を置いてそそくさと立ち去るのではなく、この一皿にはこんな思いを込めて仕上げましたと、ひと言そっと添えられるようになれば、まったく同じ食事が客の心に残していく余韻は、驚くほど深く、しみじみと豊かなものへと変わっていくはずなのです。
食べ終えた客の会計の列をさばくという重たい荷から解放された店員は、帰りぎわの客を出口のところまで見送り、今日の料理はいかがでしたかとその表情をそっとうかがいながら声をかけ、またのお越しを心待ちにしておりますという一言を手渡す、そんな別れ際のわずかな余韻にまで、こまやかに気を配れるようになります。
これらの場面に一様に流れているのは、どれもこれも機械にはついに肩代わりのできない、人の目と手と気持ちがそろって初めて成り立つ営みだという共通点であり、まさに無人の仕組みが厄介な事務作業のほうを黙って引き受けてくれたからこそ、それが生まれる余地がぐっと広がったのだという点を、見落としてはなりません。
つまり無人化とは、迎え入れる側がうまく使いさえすれば、店員を客との触れ合いからいたずらに遠ざけてしまうどころか、これまでどうしても雑事に埋もれて手の届かなかった触れ合いのほうへ、ようやく心おきなく向き合えるようにしてくれる、思いのほか心強い後押しにもなり得るのだと言い換えられます。
訪れる客の側にとっても、機械でさっと用が足りる部分は気楽に手早く済ませたうえで、どうしても人に触れてほしい場面でだけは温かな心づかいをしっかりと受け取れるという、無駄がなく、それでいて情のこもった、めりはりのある食事の時間を、これまで以上に心地よく味わえるようになっていくのです。
こうした温かな情景は、けっして手の届かない絵に描いた理想などではなく、生まれる余白の使い道をしっかりと見定めたうえで機械を迎え入れた飲食店であれば、今まさにこの瞬間にも現に立ちのぼらせている、確かに手の届く現実であるということを、どうか心のどこかに覚えておいていただきたいと思います。
では、こうしてせっかく育まれた温かな触れ合いを、その場かぎりの一度きりで終わらせてしまわず、幾度も店へ通ううちに静かに積み重なっていく深い情のほうへと育てていくために、無人の仕組みが後に残す記録がいったいどんな働きを担うのか、次はその意外な一面に、そっと光を当ててみることにいたしましょう。
無人の仕組みがもたらしてくれるもう一つの、案外見落とされがちな恵みは、客の注文や来店をめぐるさまざまな細かなできごとが、日々のなかで静かに記録として積もり重なっていくという点にあり、この一見そっけない記録こそが、人の情を思いがけず深めていく鍵をひそかに握っていることを、ここでお伝えしたいのです。
かつて人の記憶だけを頼りにしていたころは、どれほど気立てがよく客思いの店員であったとしても、幾人もの顔なじみの常連客それぞれの好みや過ぎた注文の中身を、一人残らず正確に覚えておくことなど到底かなうはずもなく、大切な心づかいの手がかりを、日々惜しみなく取りこぼしてしまいがちだったのです。
ところが、無人の仕組みを通じて客の注文が自然とデータのかたちで残っていくようになれば、あの客がいつも決まって選ぶお気に入りの一皿や、いつも避けている苦手な食材、そして記念の日にだけそっと訪れるという静かな習わしといった、細やかな手がかりの数々が、後々までていねいに残されていくことになります。
こうして残された手がかりに店員があらかじめそっと目を通しておけば、久方ぶりに顔を見せてくれた客に対しても、いつものあれになさいますかと自然な調子で声をかけたり、前回わずかに残していた品を覚えていて量をひかえめに整えて出したりといった、行き届いた心づかいを、さりげなく差し出せるようになっていきます。
訪れる客の側からしてみれば、自分の好みやこれまでの来し方を、押しつけがましくなくさりげなく覚えていてくれる店ほど、たまらなく居心地がよく、また折を見て足を運びたくなるものであり、その静かな安心感こそが、通えば通うほど深まっていく息の長い情の、揺るぎない土台になっていくのだと言えます。
ここでなにより肝心なのは、記録そのものがひとりでに情を生み出してくれるわけではけっしてなく、あくまでその記録を確かな手がかりとして、人が温かなひと声やさりげない気配りのほうへとつなげて初めて、本来は冷たいはずのただのデータが、情の通う血の通った心づかいへと、その姿を変えていくという道筋なのです。
もし残された記録を、ただ売り上げを集計するためだけにそっくり眠らせてしまったなら、それはどこまでいっても無味乾燥な数字の山のままにとどまってしまいますが、客をあたたかくもてなすための手がかりとして生かしていけば、まったく同じ記録が、幾度もの来店を重ねていく深いつながりを、静かに育て上げてくれます。
こうして順を追って見てくると、無人の仕組みが後に残していく記録は、あてにならない人の乏しい記憶をそっと補い、その場かぎりで消えていくはずだった触れ合いを、幾度も通ううちに着実に積み上がっていく深い情のほうへと橋渡ししてくれる、意外なほど温かい働きを担っていたのだということが、次第に分かってきます。
もっとも、こうした客の記録を実際に扱っていくにあたっては、当人が本当は知られたくないと願っていることにまで無遠慮にずかずかと踏み込んだり、覚えていることをことさら得意げに見せびらかしたりしてしまえば、かえって薄気味悪さや息苦しさを与えかねないという、細やかで繊細な気配りが欠かせません。
あくまで客がそっと覚えていてほしいと願っているであろう範囲の内側にとどめ、押しつけがましさを慎み深く抑えながら、さりげなく日々の心づかいのほうへと生かしていくという、その絶妙な間合いの取り方をわきまえていることこそが、そっけない記録を血の通った情へと変えていくうえでの、最も大切な作法になるのです。
では、ここまで見てきた余白の生かし方や、記録の扱いをめぐる繊細な作法を十分に踏まえたうえで、無人の仕組みを本当に人の情を深める方向へと確かに働かせていくには、店としていったい何を心がけ、そしてどんな順序で歩みを進めていけばよいのか、次はその具体的な手立てを、順を追って整理してみることにいたします。
無人の仕組みを、人の情をいたずらに薄めてしまう冷たい道具ではなく、むしろそれを確かに深めていくための温かな土台のほうへと育て上げていくためには、思いつきのままに機械をただ並べるのではなく、いくつかの心がけと踏むべき順序とを、あらかじめ胸の内へしっかりと据えておくことが欠かせないと、まずは申し上げたいと思います。
何よりもまず先に定めておくべきなのは、機械に任せることで浮いてくる時間と人手を、いったい何のために使おうとしているのかという当ての一点であり、それが人減らしのためなのか、それとも客への心づかいの厚みをさらに増すためなのかを、店の内側でくっきりと言葉にして、あらかじめ分かち合っておく必要があります。
次に心がけておきたいのは、無人化をいきなり店じゅうへ一斉に押し広げてしまうのではなく、まずはもっとも手のかかっていた注文や会計のほんの一部から小さく試しに始めてみて、訪れる客と現場の店員という双方の様子をていねいに確かめながら、時間をかけて少しずつなじませていくという、慎重で腰の据わった進め方です。
導入を進めるにあたっては、機械の操作に不慣れで戸惑ってしまう客がぽつんと置き去りにされることのないよう、すぐそばで手を添えて案内できる店員をあえて残しておくことが肝心であり、無人化をそのまま無人放置へとすり替えてしまわないというこの配慮こそが、店の情を守り抜くうえでの生命線になるのだと心得てください。
あわせて、機械へ安心して任せてよい仕事と、あくまで人が引き受け続けるべき仕事とを、現場に立つ一人ひとりがけっして取り違えることのないよう、あらかじめくっきりとした線を引いて分けておくことによって、店員は迷いに時間を奪われることなく、まっすぐ心づかいのほうへと力を注いでいけるようになっていきます。
そこで働く人に対しても、無人化とはあなたの居場所を静かに奪い去っていく脅威なのではなく、むしろ煩わしい雑事から解き放って本来担うべき役目のほうへと立ち返らせてくれる心強い味方なのだという受け止めを、ていねいに言葉を尽くして伝え、その胸のうちの不安をやわらげておくことが、現場の温もりを保つうえで欠かせません。
客へのさりげない声かけや心のこもった見送り、そして残された記録を手がかりにした行き届いた心づかいといった、人にしか担うことのできない一連の営みを、店として大切な仕事なのだとはっきり位置づけ、それを正当に評価して報いる仕組みまできちんと整えておけば、店員は安心して、その役目のほうへ存分に打ち込めるようになります。
飲食店にとってのdxとは、まさにこうした一連の心がけを一つに束ねながら、機械と人それぞれが持つ異なる持ち味を過不足なく引き出し合い、そのことを通じて食事の時間そのものをより豊かなものへと育てていく取り組みの総称なのであって、けっして目新しい機械をただ店先へ並べただけで成し遂げられるようなものではないのです。
どうしても忘れてはならないのは、どれほど無人の仕組みが店の隅々まで行き渡っていったとしても、その仕組みを整え、実際に生かし、そして最後に客と生身で向き合うのは、あくまで人であり続けるのだというごく当たり前の事実であり、機械はどこまでいっても、人の情を運ぶための器にすぎないのだという一点にほかなりません。
だからこそ、無人化を推し進めていけばいくほど、そこで働く人の心づかいや仕事への誇りをいったいどう守り、そしてどう育んでいくのかという、いっそう人のほうへと深く向けられたまなざしが、あらためて厳しく問われることになっていくのだと、この一連の手立てをたどるなかで感じ取っていただけたなら、望外の幸いです。
こうした一つひとつの心がけを地道に積み重ねていったその先にこそ、無人の仕組みと人の情とが正面からぶつかり合うどころか、しっかりと手を取り合っていく姿がおのずと見えてくるはずであり、いよいよ最後に、冒頭であえて掲げたあの一筋縄ではいかない問いへの答えを、静かに束ねていくことにいたしましょう。
無人の仕組みが増えていくほど飲食店の人情はかえって深まるのか、という一筋縄ではいかない問いをじっくりとたどり直してみると、その答えは仕組みそのものの側にあるのではなく、それを迎え入れて扱う人の構えの側にこそ、静かに宿っているのだということが、次第にはっきりと見えてきたように思われてなりません。
機械そのものには、人の情を深める力も、逆にそれを薄めてしまう力も、はじめからどちらも備わってはおらず、注文や会計といった事務作業を肩代わりすることで新たに生まれた余白を、そのまま人減らしのほうへ振り向けるのか、それとも心づかいの厚みのほうへ注ぎ直すのかという、店の意志だけが行き先を大きく分けるのです。
事務の重たい荷からひとたび解き放たれた店員が、初めての客へのゆったりとした案内や、子ども連れへのさりげない気配り、そして帰りぎわの心のこもった見送りといった、人にしか担えない営みのほうへと手を伸ばせるようになれば、無人化はむしろ、人と人との触れ合いの余地を静かに押し広げてくれる後押しになっていきます。
それに加えて、無人の仕組みが日々静かに残していく記録が、あてにならない人の乏しい記憶をそっと補いながら、その場かぎりで消えていくはずだった触れ合いを、幾度も通ううちに着実に積み上がっていく深い情のほうへと橋渡ししてくれることも、この問いを考えていくうえで、けっして見落とすことのできない一面でした。
むろん、生まれてくる余白の使い道をまるで定めないまま機械だけをいたずらに並べ立て、浮いた人手をただひたすら削り取ってしまえば、店は救いようのない味気なさのほうへと沈み込み、情はいつしかやせ細っていくという逆の道もまた、いつでも足もとで口を開けて待ち構えているのだということを、忘れてはならないと思います。
つまりこの問いへの答えは、深まるとも薄まるとも一言では小気味よく言い切れるものではなく、無人の仕組みをいったいどんな思いを胸に迎え入れ、そこから生まれた余白を最終的に何のほうへ注いでいくのかという、迎える人の選び取り方しだいで、温かいほうへも冷たいほうへも転がりうるというところに、静かに落ち着くのです。
そう考えてみると、無人化がとどまることなく進んでいく時代のなかでこそ、機械にはついに任せることのできない人の情の値打ちは、むしろいっそう際立って輝いてくるのであり、その情をいったいどう守り、どう育てていくのかという問いを、店の一人ひとりが胸の奥に抱き続けることが、これまで以上に大切になっていきます。
今度あなたが、券売機や卓上の注文画面がずらりと並ぶ飲食店で、ひとり静かに食事を味わうようなことがあれば、そこにほんのわずかでも人の情がにじんでいるかどうかを、少しだけ心を澄ませて感じ取ってみていただければ、この問いはきっと、遠い誰かの話ではなく自分ごととして、しみじみと胸に落ちてくるはずです。
店を営む立場にある方であれば、次にどの作業を機械へ譲ろうかと思案するその手前で、そうして浮いてくる時間と気持ちをいったいどんな心づかいへ注ぎ直したいのかという問いのほうを、まずは静かに胸へ据えてみていただきたく、その順序を取り違えないことこそが、無人化を情のほうへと導いていく確かな第一歩になるはずです。
無人の仕組みと人の情とは、けっして互いを奪い合う冷たい間柄なのではなく、迎え入れる側の扱い方しだいで、いくらでも互いを鮮やかに引き立て合える温かな間柄なのだという、この静かな確信のほうをこそ、長い問い直しの果てにようやくたどり着いた一つの答えとして、そっと手渡しながら、この稿を静かに閉じたいと思います。