かつての私は、客が店を出たあとに書き残していく口コミというものを、ほんの気まぐれなつぶやきくらいにしか受け止めておらず、まともに読み通すことも、まして一つひとつと向き合うことも一切ないまま、ただ日々の仕込みと調理に朝から晩まで追われる毎日を、当たり前のように過ごしていました。
料理の腕さえ確かであれば客はおのずと集まってくれるものだという、ずいぶんと古い思い込みに寄りかかっていた当時の私にとって、画面のなかに書き込まれていく言葉の一つひとつは、いわば見ず知らずの他人が勝手に漏らした感想の域を出ず、そこで心を動かされることなど、ほとんどありませんでした。
ところが、そうして口コミを取るに足らないものだと高をくくって侮り続けているうちに、あれほどまでににぎわっていたはずの私の店から、気づいたときには客足が潮の引くように、しかもごくごく静かに遠のいてしまっていたという苦い経緯を、これから恥を忍んで正直に打ち明けていきたいと思います。
この話をあえて包み隠さずお伝えしようと心を決めたのは、かつての私とまったく同じように、客が差し出してくれる声を軽んじたまま、目の前の忙しさにばかり紛れてしまっている飲食店の方に、どうか私と同じ悔いだけは重ねてほしくないという、切なる願いが胸の奥にあるからにほかなりません。
はじめにお断りしておきたいのは、これはけっして誰かをうらんだり責めたりするための繰り言などではなく、あくまで自分自身の見通しの甘さを一つずつ静かに振り返り、そこからいったい何をどのように学び直していったのかというところまでを、順を追ってお話しするための、反省の記録だということです。
客足が遠のいていくという過程は、けっして大きな物音を立てて一気に崩れ落ちるようなものではなく、ほんのわずかな声を見過ごし続けてできた小さなほころびが、いつのまにか気づかぬところで静かに広がっていくという、じつにやっかいで捉えにくい形をとって、じわじわと進んでいくものでした。
だからこそ、その崩れが誰の目にも明らかな形で表に現れた頃には、すでに取り返しのつかないところまで事態が深く進んでしまっていることも多く、私自身もまた、まさにそのなだらかで見えにくい落とし穴に、みごとなまでにはまり込んでしまっていた一人だったのだと、今ではしみじみ痛感しています。
この記事ではこれから、私がいったいどのようにして客の声を軽んじていたのか、その結果として店に何が起きてしまったのか、そしてどこで自らの過ちにようやく気づき、いかにして声と向き合い直していったのかを、時の流れに沿って一つずつ、なるべく飾らずに丁寧にたどっていくつもりでおります。
読み進めていくうちに、ご自身の店にも思い当たる節がいくつも見つかってしまうかもしれませんが、どうかそこで気まずさから目をそむけてしまわずに、むしろ店を立て直していくための確かな手がかりとして、できるかぎり前向きに受け止めていただけたなら、これほどうれしいことはございません。
あらかじめお伝えしておきたいのは、この物語がけっして暗く重い後悔だけで幕を閉じるものではなく、その悔いをむしろ踏み台にして、店がふたたび客の笑顔で少しずつ満たされていくまでの、ささやかで、けれども確かな再生の道のりまでを、しっかりと含んでいるのだということにほかなりません。
それではまず、かつての私がいったいどれほど客の口コミを軽んじ、どのような都合のよい言い分を並べてそれを正当化していたのか、その思い返せば恥ずかしくもある内側の思いのほうから、順を追ってひとつずつ打ち明けていくことにいたしましょう。
当時の私が客の口コミをまともに読もうともしなかった背景には、じつにいくつもの都合のよい言い分が、まるで幾重にも張りめぐらされた頑丈な壁のように積み重なっており、その一つひとつを今あらためて冷静に振り返ってみると、恥ずかしさで思わず顔が熱くなってしまうほどだと、正直に告白いたします。
第一の言い分は、わざわざ声を書き込む人などごく一部の変わった客にすぎず、大多数の客はこれといった言葉を残さないまま黙って帰っていくのだから、画面の上に並ぶ声などは店の本当の姿を映しているはずがないという、いま思えばまったく根拠のあやふやな、身勝手な決めつけにほかなりませんでした。
第二の言い分は、飲食店にとっては料理の味こそがすべてであって、盛りつけの見栄えや店内の落ち着き、あるいは応対の細やかさといった、料理そのもの以外の要素に触れる客の声は、いわば本筋を大きく外れた些細な文句にすぎないのだという、今にして思えばずいぶんと偏りきった思い込みでありました。
第三の言い分は、わざわざ厳しい言葉を書き残していくのは、もともと何にでも難癖をつけたがる気難しい客だけであって、まっとうに味わってくれたはずの客はきっと満足しているに決まっているのだから、いちいち耳を貸す必要などありはしないという、我ながらあきれるほど都合のよい自己弁護そのものでした。
そうした言い分の数々にすっかり寄りかかっていた私は、たまたま目に飛び込んできた厳しい声に対してさえ、こちらの事情もろくに分かっていないくせにと胸の内でただ反発するばかりで、その言葉の奥に込められた本当の訴えを汲み取ろうとする謙虚な姿勢を、まるで持ち合わせてなどいなかったのです。
厨房にさえ黙って立っていれば店はちゃんと回っていくのだという根拠のない自負もまた、私から冷静なまなざしを奪っていた大きな一因であり、目の前の鍋や包丁の動きにばかり気を取られて、店を出ていった客がその後いったいどう感じたのかにまで思いをはせる余裕など、まるで持てずにいたのが実情でした。
今にして思えば、客が食事を終えて静かに席を立ち、暖簾をくぐって帰っていったそのあとにこそ、その日の体験の本当の値打ちが客の胸の内でゆっくりと定まっていくものであるのに、私はその大切な余韻の部分を、経営の視野からまるごと外して、平然と置き去りにしてしまっていたのだと気づかされます。
口コミというものは、まさにその帰ったあとの正直で飾らない気持ちが、ありのままの言葉となって表に立ち現れたものであるにもかかわらず、当時の私はそれを、店の外側のどこか遠いところで交わされる関係のない世間話のように軽く扱い、経営の内側へと取り込もうとする発想すら、まるで持てずにいました。
さらにいっそう厄介だったのは、店が当面のあいだは表向き繁盛しているように見えていたことで、その上辺だけのにぎわいが、私に対して耳の痛い声などわざわざ直視しなくてよいのだという誤った安心をたっぷりと与え、足元にひそむ危うさの芽を、ますます見えにくく覆い隠してしまっていたという事情でした。
こうして幾重もの言い分に手厚く守られながら、私は客が差し出してくれる声から都合よく目をそらし続け、店のなかに小さな不満が少しずつ、けれども確実に静かに沈殿していっていることにも気づかないまま、ただ手元の忙しさだけを言い訳にして、貴重な警告の一つひとつを握りつぶし続けていたのです。
では、そうして客の声を握りつぶし続けてしまった私の店から、客足がいったいどのようにして、どれほどゆっくりと、それでいてどれほど確実に遠のいていったのか、その気づきにくい下り坂のありさまを、次の場面でいよいよ具体的にたどっていくことにいたしましょう。
客足が遠のいていくあの下り坂のほんとうの恐ろしさは、それがある日を境にがくりと一気に落ち込むのではなく、ほとんど気づけないほどのゆるやかな傾きのまま、じわりじわりと店の足元を静かにむしばんでいくところにこそあったのだと、私はずいぶんとあとになってから、痛いほど思い知らされました。
はじめのうちは、あれほど混み合っていた時間帯に、ふと空席が一つ二つ目立つようになった程度のことで、私はそれを、たまたまその日は天気が悪かったからだとか、近所で何か催しでもあったのだろうといった、その場かぎりの偶然のせいに、いともたやすく結びつけて片づけてしまっていたのでした。
やがて、それまで週に何度も気さくに顔を見せてくれていた常連の姿が、いつのまにかぽつりぽつりと間遠になり、二度三度と続けて見かけない日が重なっていっても、私はまだ、きっとたまたま忙しいのだろうと勝手に高をくくって、その不在を深刻な兆しとしてはまるで受け止めていなかったのです。
新しく初めて訪れてくれる客の数が細っていったことにも、当初の私はまるで気づくことができませんでした。というのも、初めての客が来ないという事実は、目の前でにぎわいが音を立てて消えるわけではないぶん、ひときわ見えにくく、肌でそれと感じ取ることのむずかしいものだったからにほかなりません。
あとから静かに振り返ってみれば、ちょうどその頃すでに画面のなかでは、料理そのものは悪くないけれどとにかく待たされた、あるいは応対がどことなくそっけなかったといった声が少しずつ書き連ねられ、これから店を選ぼうとしている人たちの目に、確かに触れてしまっていたのだろうと思われてなりません。
店を初めて選ぼうとする人ほど、実際に暖簾をくぐる前に、まず他人が残していった声にそっと目を通しておくものであり、そこにもし芳しくない言葉がいくつも並んでいれば、わざわざ足を運ぶ前の段階で、静かに候補からそっと外すという判断を下していたのだと、今の私にははっきりと分かるのです。
つまり当時の私は、目の前に一度も現れなかった客、すなわち来ようとしていったんは思いとどまってしまった大勢の人たちの存在に、まるで気づくことができずにいたのであり、その目に見えない客の数こそが、実は店の未来を水面下でひそかに左右していたのだと、あとになって嫌というほど痛感させられました。
売り上げの数字がじりじりと下がり始めてもなお、私はそれを、世の中全体の景気がよくないせいだとか、たまたま季節の巡りが悪いせいだといった、どこまでも自分の外側にある事情のほうに押しつけて説明しようとするばかりで、自らの足元にひそんでいるほんとうの原因からは、頑なに目をそらし続けていました。
やがて閑散とした時間帯がいよいよ目立つようになり、さすがにこれはただごとではないと肌でひしひしと感じ始めた頃には、いったん店から遠ざかっていってしまった客の足をふたたび呼び戻すのが、もはやそう容易ではないというところまで、事態は水面下で静かに、そして深いところまで進んでしまっていたのです。
この下り坂がなにより恐ろしいのは、どこにも派手な崩落の物音が響かないために、まさにその渦中にいる当人ほど危機の深さにいちばん気づきにくく、ようやく気づいたときにはすでに、足場の地面がずいぶんと低いところまでずるずると沈み込んでしまっているという、その不気味なまでの静けさにこそありました。
では、その音のない静かな下り坂のただ中で、私はいったいどの瞬間になって、これは客の声を軽んじ続けてきた自分自身がまねいた当然の結果なのだと、ようやく正面から気づかされるにいたったのか、その苦く忘れがたい転機の場面を、次にありのままに打ち明けていきたいと思います。
自分自身のおかした過ちに、ようやく正面から気づかされたのは、ある冷え込んだ冬の夜、広々とした店内にたった一組の客しか座っていないという、これまで一度として想像したこともなかったほどにさびしい光景を、私が厨房の奥からただぼんやりと眺めていたときのことでありました。
そのさびしい夜、私はふと思い立って、これまでずっと頑なに避け続けてきた画面のなかの声を、生まれて初めて腰をどっしり据えて、一つ残らずていねいに読み通してみることにしたのです。もはや逃げ道をすべてふさがれたような思いで、画面をめくる指先がかすかに震えていたのを、今もはっきりと覚えています。
そこにずらりと並んでいたのは、私がずっと難癖にすぎないと決めつけてきたような理不尽で身勝手な言葉などではなく、むしろ料理そのものへの惜しみない称賛の言葉と、それ以外の部分への、じつに控えめでありながらも見事に的を射た、切実で真剣な訴えの数々に、ほかならなかったのでした。
待たされてしまったつらさ、応対のどこか素っ気ない冷たさ、席まわりの落ち着かなさといった、かつての私が本筋を外れたどうでもよい些細な文句だと侮って切り捨てていた声こそが、じつは客がこの店をこれからも選び続けてくれるかどうかを分ける、決定的な分かれ道になっていたのだと、その夜ようやく悟りました。
なかでも私の胸をひときわ鋭くえぐったのは、あれほどまでに親しく足しげく通ってくれていたはずの常連が、静かに、けれどもはっきりとした失望のにじむ言葉を書き残したうえで、いつのまにかそっと去っていってしまっていたのだと、その画面越しに痛いほどありありと伝わってきたことにほかなりませんでした。
彼らはけっして何も言わずに黙って店を見捨てていったのではなく、去り際にきちんとその理由を言葉にしてまで残していってくれていたにもかかわらず、私がその大切な声にまるで耳を貸そうとしなかったばかりに、彼らを引き止められたはずのまたとない機会を、自らの手でみすみす握りつぶしてしまっていたのです。
景気が悪いせいだ、季節が悪いせいだと、それまでさんざん自分の外へ外へと押しつけてきた数々の言い訳が、その夜、音を立ててもろくも崩れ落ちていくのを、私ははっきりと感じました。客足が遠のいた原因は、ほかならぬ客の声を侮り続けてきた私自身のうちにこそあったのだと、ついに認めざるを得ませんでした。
料理の腕さえきちんとあれば客は黙っていてもついてくるものだという、私が長年後生大事に抱えてきた思い込みが、いかに独りよがりで危ういものであったかを、私はその夜、がらんとしてやけに広く感じられる店内の冷たい空気とともに、まさに骨身にしみるようにして思い知らされることになったのだと言えます。
食事という一つの営みが、けっして皿の上に盛られた味わいだけで完結してしまうものなどではなく、客が店に足を踏み入れたその瞬間から、満ち足りて出ていくまでの時間まるごとで受け止められているのだという、当たり前でありながら私がすっかり見落としていた大切な真実に、その夜ようやくたどり着いたのです。
その苦い気づきは、たしかにあまりに苦く、しばらくのあいだは自らの不明を責めてうつむいたまま眠れぬ夜を過ごすこともありましたが、それと同時にそれは、崩れかけてしまった店を根っこから立て直していくための、どうしても避けては通れない、たいへん大切な出発点になったのだと、今でははっきり言い切れます。
では、その苦く忘れがたい気づきを胸に刻んだ私が、いったいどのようにして客の声と正面から向き合い直す決意を固め、さらにその声を店の立て直しへとひとつずつ生かしていったのか、その具体的な取り組みのほうへと、いよいよ話を進めていくことにいたしましょう。
過ちにようやく気づかされたその翌朝から、私はまず、これまで長らく背を向け続けてきた客の声を、店の姿を映してくれる何よりも正直な鏡としてとらえ直し、来る日も来る日も欠かさず読み込んでいくことを、ほかならぬ自分自身への揺るがぬ約束として、静かに、それでいて固く心に決めたのでした。
とはいえ、日々のあわただしい仕込みや調理のわずかな合間をぬって、あちこちに散らばった声の一つひとつを、そのつど手作業で地道に拾い集めていくというのは、思っていた以上に容易ではなく、はじめの意気込みだけでは到底長続きしないという厳しい現実に、私は早々に手ひどく突き当たることになりました。
そこで思いきって頼ることにしたのが、飲食店の日々の営みをデジタルの力で根本から立て直していこうというdxの考え方であり、寄せられた声を自動でもれなく集めては一覧にまとめ上げ、内容ごとにきちんと整理して一目で見渡せるようにしてくれる仕組みを、思いきって店へ取り入れてみることにしたのです。
その仕組みを取り入れたおかげで、これまでうっかり見落としてしまっていた声までも一つ残らず拾えるようになっただけでなく、待ち時間への不満がとりわけ多いのか、それとも応対への注文のほうが目立つのかといった、寄せられる声の偏りや傾向までもが、はっきりと目に見える確かな形になって浮かび上がりました。
数字や言葉がきれいに整理されて目の前に並ぶことで、私はもはやその場の気分や長年の思い込みに流されてしまうことなく、店のいったいどこに最も深いほころびが口を開けているのかを冷静に見定められるようになり、限られた手をどこから打っていくべきかという肝心の判断が、格段につけやすくなっていきました。
それとあわせて、寄せられた声の一つひとつに対して、たとえほんの短い言葉であっても、真心のこもった返事をきちんと添えていくということも、私は自らに課した新しい務めとしました。声など無視されているのだと感じていた客に、あなたの声は確かに届いているのだと伝えたい、その一心からのささやかな行いでした。
厳しく手きびしい言葉にわざわざ返事を書くというのは、正直に申せば気の重い作業ではありましたが、それでも逃げずに真正面から向き合い、率直なお詫びと必ず改めますという意志をていねいに綴っていくうちに、かえって書き手のほうから、ふっと和らいだあたたかな言葉が返ってくることも少なくなく、私は静かに驚かされました。
この一連の取り組みを地道に続けていくなかで私が痛感したのは、デジタルの仕組みというものはあくまで散らばった声を拾い、整え、見えやすくしてくれるための道具にすぎず、その声にいったいどう心を寄せ、どのように応えていくのかという最も肝心な部分は、どこまでも人の側にゆだねられているのだという厳然たる事実でした。
道具の力をうまく借りて声がくっきりと見えるようになったからこそ、私はようやく、客がほんとうに求めていたものへと自分の意識を正しく向けられるようになり、あの独りよがりでひとりよがりだったかつての私自身から、ほんの少しずつではありますが、確かに抜け出していくことができたのだと感じております。
客の声と真正面から向き合い直すというこの営みは、はじめのうちこそ古い傷にそっと触れるようで、少なからぬ痛みをともなうものでしたが、それでも根気よく続けていくうちに、客がいったい何を喜び、何につまずいてしまうのかが手に取るように分かるようになり、店を良くしていく手がかりの宝庫へと、静かに姿を変えていったのです。
こうして客の声を正面から受け止めていく土台がようやく整ったところで、次はその声をもとにして、私が実際に店のどこをどのように変え、いったん遠のいてしまった客の足をいかにして根気よく呼び戻していったのか、その立て直しの具体的な手立てのほうを、順を追ってたどっていくことにいたします。
きれいに整理された客の声を確かな手がかりとして、私がまず真っ先に着手したのは、最も多くの人がそろって口をそろえるように訴えていた、注文をしてから料理が卓に届くまでの待ち時間があまりに長いという、店のいちばん深く口を開けたほころびを、根っこのところから丹念に見直していくことにほかなりませんでした。
注文の受け方や厨房への伝え方をひとつずつ丹念に組み直し、とりわけ混み合う時間帯には客が自らの手元で注文を進められる仕組みまで取り入れることで、客をいたずらに長く待たせてしまう場面がめっきりと減り、料理が湯気の立つ温かいうちに卓へきちんと届くというあの当たり前を、私はようやく取り戻すことができました。
次に腰を据えて取り組んだのは、寄せられた声のなかでたびたび指摘されていた応対の素っ気なさという難点であり、私は日々ともに働く仲間たちと幾度も車座になって話し合いを重ね、客を迎えるときと見送るときのひと言をなにより大切にしていこうという心構えを、店全体でていねいに分かち合っていったのでした。
席まわりが落ち着かないという不満に対しては、卓と卓の間隔やものの置き方の一つひとつをあらためて見直し、客が誰にも気兼ねなくゆったりと食事に向き合える静かな居場所をととのえることで、料理そのものの味わいを、以前よりもいっそう深く心ゆくまで味わってもらえる下地を、地道に一歩ずつ築いていったのです。
こうして重ねていった一つひとつの手立ては、そのどれもが華やかさとは無縁の、ごく地味な積み重ねにすぎませんでしたが、そのいずれもが客の生々しい声のなかから確かに立ち上がってきたものであったからこそ、以前のようなひとりよがりの空回りにおちいることなく、着実に手ごたえを生み出していってくれました。
変化というものは、けっして一夜のうちにあっさりと訪れてくれるものではありませんでしたが、それでもしばらく続けていくと、画面のなかに寄せられる声のなかに、もう待たされなくなった、応対がずいぶん心地よくなったといった、以前とは明らかに色合いのちがう、あたたかで前向きな言葉が、少しずつ混じるようになっていきました。
そしてやがて、一度は静かに去っていってしまったはずの常連が、ある日ふらりと暖簾をくぐってまた戻ってきてくれたそのとき、私はこみ上げてくるものをどうしてもこらえきれず、客の声に真摯に耳を傾け続けていくことの、はかりしれないほど大きな値打ちを、あらためて全身でしみじみと噛みしめることになりました。
新しく初めて訪れてくれる客の数も、芳しく前向きな声が少しずつ積み重なっていくにつれてゆるやかに増えていき、かつて静かに下っていくばかりだったあの坂道を、今度はその反対に、一歩また一歩と着実に上り直しているのだという確かな手ごたえを、私は日々の店のにぎわいのなかに、はっきりと感じ取れるようになっていったのです。
この立て直しの日々をひとつずつ乗り越えていくなかで私が心の底から学んだのは、口コミというものは店を冷たく裁くための無情な成績表などではけっしてなく、むしろ客が、この店をともに育てていこうとそっと差し伸べてくれている、あたたかな手そのものにほかならないのだという、まったく新しいものの見方でした。
かつては取るに足らないものだと侮り、無造作に払いのけていたそのあたたかな手を、今の私はどこまでも大切に両手で握り返し、日々寄せられてくる声の一つひとつを、明日の店をより良いものにしていくための、かけがえのない贈り物として、深い感謝の念とともに受け止められるようになったのだと、しみじみ感じております。
客の声と正面から向き合い直したことで、店がふたたび客の笑顔で少しずつ満ちていくまでのこの道のりをたどってきたところで、最後に、この苦く、けれども思いのほか実り多かった一連の経験から私が汲み取った学びを、あらためて静かに整理しながら、この記事を締めくくっていきたいと思います。
客の声を取るに足らないものだと高をくくって侮り続け、気づかぬうちに大切な客足を失いかけ、そこからようやく声と正面から向き合い直して店を一から立て直していったこの一連の道のりを、あえて恥を忍んで打ち明けてきたのは、どうか同じ悔いだけは繰り返してほしくないという、ただその一心からにほかなりません。
あの苦い日々が私にはっきりと教えてくれたのは、客足が遠のいていく兆しというものは、いつだって決まって、見過ごされ握りつぶされた小さな声のなかにこそひっそりとひそんでおり、その声に一日でも早く耳を傾けるほど、立て直しに要する痛みも時間も、ずっと小さくて済むのだという、動かしがたい道理でした。
料理の腕さえ確かであれば客はついてくるものだという思い込みは、たしかにこのうえなく心地のよい枕ではありましたが、食事という営みは店に足を踏み入れてから満ち足りて出ていくまでの時間まるごとで受け止められているのだと、私はあまりに多くの客を失って初めて、ようやく骨身にしみて学ぶことになったのです。
それでもなお、私がこの物語をけっして暗く重い後悔だけで終わらせたくないのは、悔いというものは、たとえどれほど苦くとも正面から逃げずに向き合いさえすれば、崩れかけた店を根っこから鍛え直してくれる、またとない出発点にもなり得るのだと、ほかならぬこの身をもって確かに知ることができたからにほかなりません。
デジタルの仕組みは、あちこちに散らばった声を拾い、整え、見えやすくしてくれるうえで確かに大きな助けとなってくれましたが、その声にいったいどう心を寄せ、どのように応えていくのかという最も肝心なところは、いつだって変わらず人の真心のほうにゆだねられているのだと、私は今も繰り返し静かにかみしめています。
もし今、かつての私とちょうど同じように、客の声からそっと目をそむけてしまっている飲食店の方がいらっしゃるのなら、どうか本当に手遅れになってしまう前に、ほんの少しだけでも勇気を出して、その声に静かに耳を澄ませてみてください。そこにはきっと、明日へとつながる確かな手がかりが、静かに眠っているはずです。
客の声に根気よく耳を傾け続けているかぎり、店はいくらでも何度でもやり直せるのだという希望を胸に抱いて、私は今日もまた変わらず厨房に立っています。かつてのあの悔しさは、今ではむしろ、客とともに店を育てていくという何にも代えがたい喜びへと、静かに姿を変えてくれたのだと、心の底から感じております。